研究のための小物たち T 〜辞書〜




A.国語辞典と漢和辞典



国語辞典の最高峰 『日本国語大辞典 第二版』

(1) 国語辞典

 文章を書くとき、辞書をどれくらい丁寧に引くかで、その文章の出来は大きく左右されます。最近の学生が書いたレポートが、内容以前に、日本語の文章としていかにひどいものであるかは、大学教員なら誰もが嘆いているところですが、ああいう小学生のような文章を平気で書き、それを堂々と提出するという学生は、おそらく辞書なんか全く引かないのではないかと想像します。うちのゼミでは、書評や卒論の添削によって、そういう点もかなり矯正しているつもりですが、どうなんでしょう。

 さて、その国語辞典でもっともいいものは、いうまでもなく50万項目、用例100万例という『日本国語大辞典 第二版』。そしてそのエッセンスを凝縮した精選版(30万項目、30万例)ですが、前者は全13巻+別巻、後者でも全3巻、計6475ページもありますから、おいそれと常用するわけにはいきません。それでも、せめて精選版くらいは備えておかないと研究者として恥ずかしいということで、私も以前、大枚をはたいて思い切って購入しました。3冊で計4万7250円也。まぁ10年、20年使えると思えば安いのかもしれません。

 われわれは日本語を母語としているので、外国語辞典の不備とは違い、日本語の辞書の欠点にはかえって気がつきにくいのですが、実は国語辞典って、相当いい加減というか、多くの問題を抱えていると思います。よく言われるのが、国語辞典は言葉の意味=語義を掲げているのではなく、ただ言い換えているだけ、ということで、たしかに外国の自国語辞典(たとえば英語国で出版されている英英辞典)が言葉の意味を一所懸命、数行を使って解説しているのと対照的に、日本の国語辞典は素っ気なく、ひとつの単語をひとつの単語で説明(?)して済ませていることが多いように感じます。ある辞書で「弱音(じゃくおん)」という言葉を調べたら、「弱い音」って書いてありましたけど、こんな説明、いりません・・・。

 また非常に一般的な言葉が、なぜかしばしば国語辞典には載っていません。たとえば「右肩上がりの成長」という表現、誰でも普通に使うと思いますが、私のもっている1冊本の国語辞典で「右肩上がり」が載っている辞書はありませんでした。

 そういうわけで、語義の説明という点でも、収録している語数という点でも、唯一本当に頼りになるのは、この大辞典です。まだ二版ということで、英語の OED やドイツ語のグリムなどと比べれば歴史も浅く、批判もあるでしょうが、やはり多くの場合、他の中小国語辞典とは一線を画す語義説明がなされており、「右肩上がり」ももちろん載っています。辞書は大きければ大きいほどいい、というのは、たしかに真実です。もちろん、「ちゃんと引いて、ちゃんと読むのならば」という条件付きですが・・・。


5万円でお釣りがくる『精選版 日本国語大辞典』


 さて、こういう超大物は別として、普通の辞典は最新情報が載っているあたらしいものを備えることが必要です。新語が収録されているというだけでなく、競合商品が多いこともあって、版をあらためるにあたって、各辞書それなりに改良が重ねられています。よく、学生時代に買った数十年前の辞書をボロボロになっても未だに使い続けているぞ、などと、いい年をして威張っている人がいますが、すくなくとも研究とか調査とか執筆とかに少しでも関わっているのであれば(含・大学生)、こういうのは問題外でしょう。手垢にまみれた辞書は、勲章ではなくて怠惰の証というべきです。辞書など全然引かないという人よりは、はるかに立派ではありますが、学生(=学ぶ生き物)たるもの、そんなレベルで満足していてはいけません。

 その辞書が心底気にいっているとしても、多くの辞書は5〜10年に一度くらいの頻度で改訂されているはずですから、最新版に買い換えるべきです。ほとんどの辞書は3000円前後で買えるのだから、こういう費用を惜しまないこと。そういう態度が、長い人生のなかで、いつかものを言うものです。教員でも、上司でも、取引先でも、先輩でも、親戚でも、あなたが何を身につけ、何を使っているのか、見るべき人は見ています。

 さて、それではどんな辞典がいいのか。私が現在使っているのは、まず『学研現代新国語辞典』(改訂第3版 デスク版)。これを選んだ理由は、編者(かの金田一春彦先生)の序文にこうあったからです。

 「振り返れば、私もこの年齢になるまでに、何種類かの国語辞典を編纂し、また、数多くの辞典の作成に関係した。しかし、今度の辞典ほど私の理想にぴったりしたものは作れなかった。この辞典が作れたことに満足し、生き甲斐を感じることは幸せである。」

 辞書界の神様みたいな人に、こんなこと書かれたら、買わないわけにはいきません。まさに究極のキャッチコピー。

 金田一博士といえば、春彦先生も父親の京助先生も、膨大な数の辞書において編者や監修者となっていますが、とくに父君の辞書について言えば、実際には名前を貸しているだけで、自ら編纂や執筆の仕事をされているわけではないようです。これはほかの辞書でも同じで、広辞苑だって、新村出編となっているけれども、新村博士は序文を寄せているだけで、現在出ている版で言えば、「編者」は1行たりとも本文の記述には関与していないんじゃないでしょうか。

 こういうのは辞書界では常識的な慣習なんでしょうが、これは許せぬ「悪習」だと、もっとみんな(利用者、購入者)がはっきり、大きな声を上げるべきだと私は思います。背や表紙に堂々と「嘘」(=事実でないこと)を書いて売っているわけですから、他の商品だったら、消費者契約上の「不当表示」で訴えられても文句言えないでしょう。

 まぁそれはともかくとして、この学研現代新国語は、本当に金田一春彦編というべきもののようだし、ここまで自賛されるからには、相当な名辞書という可能性ありと思って買ったわけです。実際に使ってみても、抜群の出来かどうかはわかりませんが、なかなか良くできているとは思いましたので、学生・社会人に広く薦められる国語辞典です。

 ちなみに、この辞典による「女」の語義。「人間の性別の一つで、性質がやさしく、子を産む能力をもっているもの。」 つまり、やさしくなければ女じゃないようです。ゼミの女性の皆さんは、よく受け止めて考えるように。


『学研現代新国語辞典』デスク版


 あとは、現代文学からの用例で定評ある『新潮現代国語辞典』(第2版)。文学者のような格調の高い文章を書くためには、こういう辞書がいいんでしょう。この辞典は新潮国語辞典の現代語版ですが、現代語といっても、用例は幕末から1945年までの文学作品から取られている(新語についてはその限りではない)ので、ちょっと時代がかった感じはありますが、年上の方に宛ててあらたまった手紙を書くときなど、最適かと思います。

 なお、この辞典だと「女」は、「人間の性別の一で、子を産む器官を有するもの」だそうです。学研現代新国語だと、おばあさんで、しかもやさしくなかったりすると、「女」とは言えないような気がしますが、こちらの定義では、そういう人でも間違いなく「女」です。辞書というのは、「あ」は誰、「か」は誰、というふうに分業で作るのが普通だそうですから、ひとつの単語だけを取り上げて批評しても意味がないのですが、この語に限って言えば、新潮の勝ち、学研の負けですね(ただし、「女」の語義はいいけど、「男」が「人間の性別の一つで、女に子を産ませる能力を有するもの」となっているのは残念。たとえばお爺さんや幼稚園児だって男でしょう)。これでもう少し活字が大きく、読みやすい版をつくってくれると、年輩者なんかは飛びつくと思うんだけど・・・。

 あとは、男のところで「性別の一つ」となっているのに、女のところでは「性別の一」となっているような校正ミスがあるとか、あまり必要とも思えない語にわざわざ用例がつけてある(「数学」「動物園」「焼きリンゴ」みたいな類の名詞に、なぜ用例が必要なのか、全然わかりません。語義の理解に役立つわけでもなく、初出例でもないような用例が、限られたスペースなのに必要なんでしょうか?)一方、ぜひ用例が欲しいと思う語には抜けているとか、細かな点をもう少し見直して欲しいと思います。

 売れてる辞書なら、新版になる前に、増刷の段階でどんどん訂正を加えられるんでしょうが、この辞典、文筆家などプロの評判は高いのにもかかわらず驚異的に売れていないようで、一応版を重ねて現在第2版ではありますが、たまに置いてある書店で見ても、7年前の第2版第1刷が並んでいます。なぜ、こんなに売れないのか。やっぱり、年配者に受けるような内容であるにもかかわらず、かなり活字が小さくて高齢者には見づらいというのが大きいのでしょうか、ちょっと不思議です。


プロが愛用する『新潮現代国語辞典』


 新潮とは対照的な辞書ですが、小さいのに百科項目が充実している『角川必携国語辞典』は、たしか翻訳の天才、柳瀬尚紀氏が推薦していたことで初めてその存在を知り、買ったんだと思います。自分にとっては、「電気炊飯器とノートパソコンと数冊の辞書」という最小限の持ち物でイギリスに1年間の在外研究に行ったとき(住所さえ決まっていなかったので、日本から持ち込むものはすべて手で持って行ったのです)、大きさと内容を考えて選んで持って行ったうちの1冊で、日本語については1年間をこれで過ごしたという辞書です。

 もともと、こういうタイプの辞書にはあまり食指が動かなかったんですが、コンパクトだし、編者の一人が大野晋先生だし、手軽にという点ではいいんじゃないかと思います。帰国するとき、向こうにいる方の役に立つだろうということで、イギリスに置いてきてしまいましたけれども・・・。ようやくインターネットが身近になり始めた95年の刊行なので、改訂版が欲しいところです。


改訂が望まれる『角川必携国語辞典』


 同様に古くなってしまったけれども、現在でも注目すべき辞書として、1985年に刊行された『旺文社詳解国語辞典』があります。1100ページほどで、他の辞書と比べるとかなり薄く(おかげで価格が2000円と安い)、全然さえない外観の辞書なんですが、中身は非常に濃いものがあります。

 まず、見出し語を別の単語で置き換えるのではなく、語義をちゃんと説明しようと努力しているところが評価できます。そして、なんと「全て」の見出し語に、簡単ではありますが、もれなく用例がついているのです。こんな辞書、他にはないのではないでしょうか。似た意味の言葉でも、使い方の違いやニュアンスの差を知ることができる辞書だと言えるでしょう。

 ただ、何しろ20年以上前につくられ、これまで一度も改訂していないせいなのでしょうが、一語一語を見ていくと、語義についてもいろいろ不満はあります。「女」の説明に、「『女性』という方が丁寧になる」とあるのは親切ですばらしいのですが、「人間で、男でない方の性別の者。子供を生む能力をもつ」という語義は、もう一頑張りして欲しかったところです。「愛人」を引くと、まず第一の意味として「愛している異性の相手」とあり、「愛人と結婚する」という用例がついていますが、愛人ってそういうものなんでしょうか? 私の語感とは随分かけ離れているのですが・・・。20年前でも、愛人はそんなに堂々とした存在ではなかったように思うんですけどね。(『学研現代新国語』には「〔古風な言い方で〕恋人」とあり、「近年、よくないニュアンスをもつ」と付記されています。)

 また、基本語に重点を置くということなんでしょうけれども、収録語数が少ないこと(わずか4万4000語。ふつうの辞書の3分の2から半分くらい)は最大の問題でしょう。手を加えてアップデートすれば、すばらしい辞書になると思うので、編者と出版社にはぜひ改訂版をお願いしたいところです。

 もし改訂が本当に実現するならば、それに越したことはありませんが、些か古くなったとはいえ、この辞書は現行版でも買う価値が十分あると私は思います。しかし現在、残念ながらこの辞典は出版社でも在庫切れのようで、インターネット通販のアマゾンなどでは購入することができません。ただ何と言っても天下の旺文社の辞書ですから、地道に探せば、まだ在庫を持っている書店が結構あるのではないかと思います(辞書類は、ある程度の種類を売り場の棚に常備しておくことがもとめられるので、他の単行書と違って、書店は売れなくても返品しないことが多いのではないでしょうか。私も某大型書店の棚にあった売れ残りを1冊手に入れました)持っていて損はない辞書ですので、興味のある人は、本屋に行ったら気をつけて辞典コーナーを見る癖をつけておくといいかと思います。改訂を重ねている旺文社国語辞典ではなく、青い箱に入った旺文社詳解国語辞典ですので、間違えないように!


知る人ぞ知る名辞書 『旺文社詳解国語辞典』


 そのほか、これまでに新潮国語岩波国語旺文社国語集英社国語辞林21等々の紙の辞書を使ったことがあり、自宅と職場に何台かあるパソコンには岩波国語広辞苑学研国語大辞典大辞林などの国語辞典ソフトを適宜インストールしてありますが、一般に大人気の新明解は、たしか小学校4年生くらいの時に実家にあって使っていたような記憶がある(いま考えると、初版のコンパクト版か何かだったんじゃないかと思います。いまではマニア垂涎の品?)けれども、大人になってからは全く縁がありません。どういう辞書か、ちゃんとわかって使うなら、おもしろいとは思うんですけどね。

 現在、国語辞典の代表的存在とされている広辞苑大辞林の二大ライバルについては、また、新しい辞書がいいと言っておきながら、ちょっと古い辞書ばかり取り上げてしまいましたので、比較的新しい辞書の代表格である明鏡国語大辞泉などについても、このあと電子辞典の項で取り上げることにしましょう。




(2) 漢和辞典

 漢和辞典は "敷居が高く"(この言葉については後述)、自分にはよくわかりません。諸橋とか白川とか藤堂とか、巨匠が編まれた辞書がやっぱりいいんじゃないかと根拠もなく思っているだけですが、実際に引くのは、手頃な白川『常用字解』『新漢語林』というのが正直なところ。あとは電子辞典のところで述べる漢字源くらい。藤堂『学研大漢和』も保険みたいな気持ちで旧版のソフト版を買ってパソコンにインストールして備えてはありますが、よほどのことがない限り引きません。


親字1万4313字を誇る『新漢語林』


 諸橋『大漢和』くらい、大学教員なら当然持っているものなのかもしれませんが(どうなんでしょう? 誤りも多いって本当?)、置く場所がないという言い訳を自分自身にしています。教養がある人なら、白川三部作とか康煕字典とか、持っているのがあたりまえと聞くと、忸怩たるものあります。反省します。


 国立大学の権威に楯突く白川先生の三部作


 たしかに、「医」の本来の部首が「酉」で、「余」の部首が「食」だというのは、我々の世代になると、子供用ではない、ちゃんとした辞典などで調べなきゃわかりません(正字が「醫」「餘」だからです)。「利」の部首が「のぎへん」ではなくて、なぜか「刀」(りっとう)だというのも、辞典で意味を知れば納得できます。

 (稲などの穀物を意味する「禾」を「刀」で刈り取って利益を得るというのが「利」という字の成り立ちで、「刀」が変形して右側の「りっとう」になったんだそうです。ただし辞典によっては、稲を刀ですぱっと切り取るということから、うまく通じて支障がない<水利、利尿>とか、するどい<鋭利>という意味の「利」という字になった、ということが先に書かれています。)

 パソコンで文章を書いていると、こういう漢字の奥深い世界を知ることもなく、ATOKが勝手に変換して書いてくれるので、どんどんバカになっていき、困っています・・・。

 ただね、犬猿の仲だったという白川 vs 藤堂というのが典型的なんでしょうけれども、同じ漢字を説明するにしても、辞典によって全然説明が違うというのはいかがなものかと・・・。学説がいろいろあるというのは理解しますけれども、素人が使う辞典に、自信たっぷりというか、明々白々な事実のように、「●という漢字の字源は○○で象形文字である」と説明する辞典もあれば、「●は会意で××というのが源である」と断言する辞典もあるというのは、ちょっとおかしいんじゃないかと思うのですが、どうでしょう(たとえば「王」という字をいろいろな漢和辞典で引いてみて下さい)。


天下の東大・藤堂先生の『大漢和』


 「この字の成り立ちについては、象形の○○という説もあれば、会意の××という説もある」と書くのが、レファランスブックとしては普通じゃないかと考えるのですが、そうじゃないのが漢和辞典みたいで、不思議な世界です。




(3) 英和辞典

 国語辞典以上に、使っている辞書を見れば、その人の教養がだいたいわかるのが英和辞典でしょう。大学生ならば、高校時代の辞書をそのまま使い続けているか、それとも大学生になってからちゃんとした辞書に買い換えたどうかで、その学生がまともかどうか、ある程度判断できます。 (つづく)